昨年以来、米ドルで資産運用を志す方々からのコンサルティング依頼が急増しています。
弊社ではアメリカ不動産コンサルティングに加え、州規制当局に登録されるRegistered Investment Advisor (RIA)としてアメリカ国内での資産運用全般のコンサルティングも提供しており、内容は不動産投資以外となりますが、初心者の方々からのご質問を総括する意図で株や債券に関するまとめ記事を1月7日から期間限定であげさせて頂きます。
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こんにちは。アメリカで不動産エージェント兼コンサルタントとして働く佐藤です。
90年代半ばの話です。
その頃は東京で少ないお金で毎月暮らしていた時期でした。
東京のとある田舎風情が残る商店街の近くに住んでいたのですが、常に繁盛する商店街の賑やかさとは裏腹に佐藤のお財布の中身はいつも寂しい限り。
お小遣いは毎月本当にギリギリで、月末には財布の中身は常に1,000円未満でした(実話)。
ある月の週末、商店街を歩いている時にこれまた田舎風情を残すラーメン屋さんが目に入りました。
今でも覚えていますが、財布を見るとその時の小遣いの残りは300円(実話)。
そこでお店の外から壁に貼ってあるメニューを見ると
「ワンタン300円」
と書いてあるではありませんか。
「よし、今月はここのワンタン麺でしめる!」
とばかりに勢いでお店に入り、
「ワンタンお願いします」
と注文して待つこと5分ほど。
目の前に出されたどんぶりの中身を見て愕然とし、そのまま3秒ほど静止してしまいました。
なんとどんぶりの中にはスープの中にプカプカと浮かぶワンタンが数個だけ。
メニュー表の「ワンタン」とはてっきり「ワンタン麺」のことと思いきや、本当にワンタンのみで麺の入っていないただのワンタンスープだったのです。。
世間知らずの若かりし佐藤はワンタンスープとワンタン麺の違いも分からずに自爆したわけで(それならワンタンスープと書いて欲しかったのですが。。)、スープとワンタンそのものは文句なしに美味しかったものの
「さよなら最後の300円。。」
と心の中で涙しながら食したのでした。
。。。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」
とはそのとおりで当時の懐の寂しさは今となっては笑い話の種ばかりですが、そのような苦労をしておいて良かったと心から思います。
おかげさまで今でこそ好きな時に外食するようになりましたが、若い時に苦労したからこそ値段を気にしなくてよいことに一番の贅沢を感じるのかもしれません。
行動の制限が取れた状態で暮らす
ときに
「お金持ちの定義」
なるものを本で読んだり動画で見たりすることがありますが、経済的な成功を収めた方々が口にするお金持ちの定義には
「純資産が5億円あること」
「不労所得が年間2000万あること」
「資産が生み出すキャッシュフロー以下の金額で毎月の生活を送れること」
等、人によって違いがあるようです。
それら各々が体験上定める定義にどれも間違いはないでしょうし、お金持ちの定義など法律で定められているわけではありませんので個々の定義でよいわけですが、私(佐藤)自身は過去の経験から感覚的に最もしっくりとくるお金持ちの定義は
「行動の制限が取れていること」
です。
結局のところお金持ちの定義は紙幣という名の紙切れでは決められないものではないでしょうか。
どれだけ精巧に造られようが所詮紙切れは紙切れですし、紙幣と呼ばれる紙に国力という名の目に見えない信用が乗っかっているにすぎません。
紙幣はどこまでも物々交換に代わる価値交換媒体であり、モノとサービスの対価として使える紙切れにすぎません。
世の人々が本当に欲しいのはその紙切れなどではなく、
「やりたい時にやりたいことが出来る行動の自由」
であるように思うのです。
贅沢なレベルでなくとも
必要な衣類を買う。
食べたい時に食べたいものを食べる。
暮らしたいところに暮らす。
そんな風に常に自由に行動出来る状態、言い換えると
「行動の制限が取れた状態」
こそが尊いように思いますし、何をするに関わらず行動の制限が取れた生活が死ぬまで続くのであれば誰もが満足な人生になるはずです。
ここに
「お金という名の紙切れを何枚持っているか」
は全く関係ありませんし、行動の制限を取るのにどう考えても何十億ものお金はいりません。
人生の充実度を高める
そして生きていく上で必須の衣食住に不便がなく、かつ
「行きたいところにいつでも行ける」
という状態であればかなり満足に人生を終える条件は整います。
けれど私(佐藤)自身は個人的に「行動の制限が取れた状態」をお金持ちの定義と考える上で
必要な時に好みの服を買う
好きな時に好きなものを食べる
気に入った街の好きな家に暮らす
という行動の制限が全くない状態を実現できたとしても、それと幸せであることは全くの別問題のように思います。
行動の制限は全くない生活をしていても
「私の人生、満たされていない」
「お金にしか愛されなかった人生だった」
という人はいくらでもいるでしょうし、その理由はほぼ共通して
「身近な人とですら本当の信頼関係を築けていない」
ことにあるものです。
祖父母
両親
兄弟・姉妹
友人・知人
を初め、自分にとって大切な人は何人いるでしょうか。
近しい存在ほど大切に感じるはずですし、そのような
「自分にとって大切と思える人たちと共有する時間」
ほど贅沢で人生を濃厚にするものはないように思います。
おそらく人生の有意義さは
⇒ 愛する人と夏の花火を見る
⇒ 家族と映画を見る
⇒ 友人たちと居酒屋で飲む
そんな風に自分にとって大切な人達と特別な時間をどれだけ共有できたかで決まるでしょうし、このことは先に述べた佐藤なりのお金持ちの定義すら関係のない、別次元に人の幸せはあるように思います。
「お金持ちの定義は紙切れをどれだけ所有するかではなく『行動の制限が取れた状態』」
「人生の充実度はお金では測れず、大切な人たちと大切な時間をどれだけ共有できたかで決まる」
そんな風に考えるのです。
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