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こんにちは。アメリカで不動産エージェント兼コンサルタントとして働く佐藤です。
渡米して間もない頃、聖書を読む機会がありました。
聖書には、とどのつまり
「倫理観たるべき世間の常識」
が書かれているように思います。
あまりにも短絡的に解釈すると専門家の方々には怒られてしまうかもしれませんが、とりわけ新約聖書などは倫理と論理を兼ね備える、人としてあるべき常識が説かれているように思うのです。
アメリカの小学校には日本でいう「道徳の授業」に相当するものがありません。
厳密にはそれに似たものがありますが、きちんとした授業として子供たちに倫理観が繰り返し教えられる場面はないように思います。
聞くところによると、
「アメリカでは倫理観を教えるのは教会の役目」
なのだとか。
なるほど確かに聖書を元にする教えは倫理観を身につける上で最適でしょうし、極端に分業制の進んだアメリカでは倫理観を教える場所は教会だと割り切る方が自然に聞こえます。
実際に新約聖書が語るところは倫理観以外の何物でもないでしょうし、しかも社会に出てから出会うビジネス場面でも聖書で説くところの倫理観の必要性を教えてくれる場面が度々あるように思います。
ここはあくまでも私(佐藤)個人の解釈ですが、一つ例を挙げると聖書の中でも論理的にも矛盾のない話に新約聖書のルカ第6章にある
「与えよ、されば与えられん」
という言葉があり、これもまた倫理と論理を兼ね備えた言葉です(あくまで佐藤個人の解釈です)。
無料で取ると奪われる
昔、ニューヨークで暮らしていた時は若さも手伝って何でも手に入れたい気持ちが先走っていました。
当時はドットコムバブルが崩壊した直後でもあり、けれどもそれまでの勢いは衰えずに世の中が一気に情報化社会に突入し始めた時期です。
システムエンジニアとしてプログラミングの世界で毎日キーを叩き、当時コミュニケーションツールの主流であった「掲示板」で世界のプログラマーたちと切磋琢磨し合う日々。
およそあらゆる情報がインターネットの中を飛び交い始めており、世の人々が情報の渦に埋もれ始めた時期でもありました。
そんな中、情報過多の世界で私(佐藤)がこだわっていたのは
「無料で情報を集めること」
です。
プログラミング知識は元より、いかに無料で知識を得てそれをお金に変えていくかに必死でした。
結論から言えば無料で情報を集めることは時間の無駄以外の何でもありませんし、無料で集めた知識で本当に身になったものは何一つありませんでした。
無料で知識を集めて学ぶことで「得した気分」に浸るのも束の間、何ら自分の身になるものはなかったのです。
その時の経験があったからこそ、今でも何か新しいことを知ろうと思えば
「無料情報は避ける」
ことを心がけています。
無料で手に入る情報は身にならないことを人一倍痛感していますし、
「それを知れば相当な知的財産になる。高い確率で資産形成にもつながる。」
ということであればなおさら、
⇒ 無料のセミナー
⇒ それなりのお値段がする有料セミナー
の2つを同時に紹介されたとしたら、迷わず後者を取ります。
もちろん有料であったとしても「外れ」はあり得ますし、全てがすべて倍返し以上で自分に返ってくるとは思いません。
けれども壁に向かって投げたボールは確実に自分に跳ね返ってきますし、強い力で投げるほど勢いよく跳ね返ってくるものです。
新約聖書が
「与えよ、されば与えられん」
と語るとおり、自分が(謝礼という形で)先渡しした分は求めようが求めまいが必ず跳ね返ってきます。
ところが先渡しなしに無料で手に入れようとしても結局は
「取れば取られる」
で、自分の時間が無駄に奪われてしまうだけのように思うのです。
例えば知り合ったばかりのAさんを家に招いて、一緒に食事をする場を設けたとしましょう。
楽しみにしていた気持ちも束の間、招待されたAさんは遠慮を知らず
「これはありませんか?」
「あれはありませんか?」
と厚かましく食べ物と飲み物をねだってきます。
招待した方は苦笑いをしながらAさんの希望に出来る限り応じようとするでしょう。
けれども、その会食後に
「Aさんをもう一度家に招待したいですか?」
と問われれば誰だって
「いやもう勘弁」
となるものではないでしょうか。誰が良い悪いではなく、それが当たり前の人の心理というものです。
私(佐藤)自身が過去に自分で散々体験している為に言えますが、無料で情報を得ようとする姿勢もAさんの姿勢と何ら変わらないものだと思います。
その時は得したように見えても結局は身にならないでしょうし、セカンドチャンスはおそらくやってきません。
だからこそ、倫理的にも心理的にも
「与えよ、されば与えられん」
とはごく当たり前の話ということになるでしょうし、自分が何でも無料で手に入れようとする姿勢のままであるのなら確率論でいっても将来に自分が栄えるはずがないと思うのです。
「じゃあ、先立つお金がない場合は?」
と言えば、その時は「自分の時間」を与えるしかないよいうに思います。
お金という対価で渡す必要があっても足りないのなら、先渡しの姿勢で自分の時間を割いて必要なお金を稼ぐしかありません。
大事なのは与えるものが時間だろうがお金だろうが『与えよ』の部分が始まっているということでしょうし、先立つものがなくて自分の時間を与え続けている人は高い確率でお金で先に与えられるようになると思います。
そしてお金で先渡しができるようになったら、今度は更にお金で先に与えられるようになります。
そのサイクルが始まると金額の高は横においても先渡しの結果は後から後から自分に入ってくることになるでしょうし、そうするとやはり
「与えよ、されば与えられん」
とは倫理と論理の双方において間違いないように思うのです。
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