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こんにちは。アメリカで不動産エージェント兼コンサルタントとして働く佐藤です。
時折、日本を訪れる時に思うのですが、間違いなく日本は世界で最も豊かな国です。
ここで言う最も豊かという定義は
GDPが世界一
国民の平均所得が世界一
という数字の話ではなく(事実、どちらも世界一ではなく)、けれども2つの豊かさが世界一だと思います。
それは
自然が豊か
モノが豊か
その両極端な2つが、たまに日本の外から訪れる私(佐藤)の目には、非常に豊かに見えるのです。
自然の場合、日本で暮らしていると当たり前すぎて気づかない人々の方が多いかもしれませんが、
- 街を囲む深い緑の山々
- 神道観を醸し出す竹林
- 尽きるのことのない天然水
等、世界で類を見ない美しさと豊かさ。
都会の水道水は無理にしても、少し田舎にいくとそのまま飲める天然水はいくらでもあります。
普通に水を飲めることが当たり前ではないことを知らない日本人は案外多いものです。
またモノの場合、特に東京を始め近郊の街を歩いていると無意識にも通り過ぎてしまう商店街の数々。
そこには
- 食堂・飲み屋
- コンビニ
- ドラッグストア
等、所狭しと並ぶお店が延々と続いています。
田舎にいくと事情は違うとはいえ、多少田舎でもイオンモールに行けばやはりそこにはモノが溢れています。
自然そのものは遥か昔から豊かさを保ち、モノの場合は戦後、とりわけテレビのブラウン管の向こうに移るアメリカという国のモノ豊かな暮らしに憧れて
「(テレビ番組で見る)あれが目指すべきライフスタイルなんだ」
と無意識にも、アメリカを目標としてきた時代があったものでした。
それも90年代初頭にはピークに達し、事実上、日本はアメリカに並んだのです。
そして物欲は失せた
とどのつまり、今の日本はすでに十分にモノは豊かです。
戦後の日本
今の日本
を比較した時に、国民が目の前にしているモノの豊かさは比べ物になりません。
戦後はモノの豊かさに憧れたはずが、今の日本(特に若い世代)は生まれた頃からモノが十分にある国ですから、憧れは持ちようがないはず。
結果として物欲は薄れるでしょうし、ひと昔前は
マイホーム
マイカー
を所有することが一つのステータスでありゴールであったはずが、
シェアハウス
シェアカー
で満足する風潮は、モノの豊かさがピークを過ぎたことの象徴の一つなのかもしれません。
恐らくはここから活躍する若者の中で
「お金をガツガツ稼ぎたい!」
と心底願う人は少ないでしょうし、適度に生活に困らなければよい、と考える風潮がより一般的になるのではないでしょうか。
結局のところ世代間に違いがあるというよりも、全ての世代をつないでみた時に、あたかも一人の人生において
⇒ モノがなく豊かさに憧れた時期(物欲に燃える)
⇒ モノの豊かさを達成した時期(当たり前すぎて過度な物欲は失せた)
そんな風に心理に変化が出たのが今の日本なのかもしれません。
ちなみに私(佐藤)自身はどうかといえば、最初から物欲はほとんどありません。
必要なものは周りに揃えていますが、モノを買うとすれば
- サンクスギビングデー翌日のブラックフライデー
- その数日後のサイバーマンデー
あたりでアメリカの年末商戦に乗せられて、電化製品を1つか2つ購入する程度でしょうか。
もちろん今のAIを見ても先が読めるとおり、世の中の利便性は今後もますます変化変容していくのだろうと思います。
その先端に乗る乗らないでは、経済的にもいよいよ格差は大きくなりそうです。
また
仕掛ける者
と
仕掛けられる者
の二者択一しかない現代社会では、仕掛ける側にならないことには、より豊かな生活の享受は難しくなりそうです。
けれども、
「今より豊かな生活は本当に必要か?」
といえば案外、今以上の豊かさは必要ないものではないでしょうか。
なぜお金で測るのか
反面、そんなモノに溢れる十分豊かな時代に生まれ合わせたとはいえ、私(佐藤)自身は経済的な目標があるのかないのかといえば、そこはきっちりお金の単位で目標を設定しています。
お金は「目的」にはなりえず道半ばの「目標」以上でも以下でもありませんが、少なくとも今の時代に生を受けた一人として、経済的目標に向けて稼ぎのレベルを測っています。
けれどもその目的は
「より経済的に豊かになりたい」
からかといえば、そんな想いは微塵もありません。
噓偽りなくゼロ発進の最初の頃から物欲はありませんでしたし、今でも物欲の無さは変わりません。
ならば高い数字目標を敷いているのはなぜかと、それは
「知識と経験を積み上げながら、人生を面白おかしく生きたいから」
です。
例えば何らかの資格を取るとしましょう。
宅建
英検
行政書士
と何でも良いのですが、然るべき資格を取る為に必死に勉強をするとします。
私(佐藤)にしてみれば、その資格を取る過程で大切なのは資格そのものよりも
「資格を取得するまでの過程」
です。
それと同じように、
「$〇〇〇〇を稼ぐ」
という数字目標は、その金額そのものにはほとんど意味がなく、
「その$〇〇〇〇を華麗に美しく稼ぐ」
というところに拘っているのです。
華麗に美しくとは気取るような話ではなく、
- 戦略を練って
- 失敗を繰り返しながら
- 仲間との集合知で突破していく
そんな泥臭さの向こうにようやく達成できる「華麗に美しい」体験の刻み方を求め続ける意味で、
「さて、自分はどこまで来たのかな?」
を測る尺度が経済的な数字であり、
「もう、これくらいでいいかな」
そんな風に区切りをつけるのが、最終目標の数字です。
今の時代ありがたいことに、私たちが暮らす先進国にはモノはもう十分にあります。
十分豊かであり、これからより物欲が失せるだろう時代には、ごく自然に人らしく生きることの再定義が求められてくるのではないでしょうか。
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